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黎明期(室町〜戦国時代)
- 室町時代 神宮の小工が御造営の余材で内職として作りはじめたという言い伝えが残る。(『宇治山田市史』)
- 戦国時代(1400年代後半)頃の文書に「大漆師屋」「塗屋館」などの表記があり、そのころ伊勢に漆芸が伝わっていたことが確認出来るが、それが春慶塗であったかどうかは不明。
発展期(江戸中期)
- 街道整備や御師の誘致により参宮客が増大し、伊勢の特産品として伊勢春慶の器が売買されるようになっていた。
- 勢田川沿いに開けた河崎付近の問屋街が、水運により漆器の流通を担い、伊勢湾沿岸や関西等に出荷されており、元和年間(1615〜24)からは河崎にも塗師が居住していたことが確認される。
- 安永2年(1773)「宮川夜話草」に伊勢土産としての漆器が挙げられている。
- 延享2年(1745)漆器店である岡本町の岩井源助家が創業
- 寛延元年(1748) 同 片岡善兵衛家が創業
- 寛政元年(1789) 同 橋本佐兵衛家が創業
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成熟期(幕末から明治時代)
- 幕末に創業した漆器業者が何店か確認され、このころ、伊勢で漆器業が盛んであったことが分かる。
- 明治元年(1868)出版の横地長重著『伊勢参宮春之賑』には、伊勢春慶を、船で関東や大坂、京都に出荷していたことや、その商品が重箱、おひつ、膳、盆、枕など多岐に渡っていたことが記されている。
- 明治2年(1869)河崎の老舗問屋辻村・村田廻漕店や岡本の片岡・橋本・岩井の3家などが名古屋の店舗と取引する記録が残されている。このころ片岡家は「かんな目」と呼ばれる技法を開発。
- 明治6年(1873)ウィーンで開催された万国博覧会に、片岡家が「伊勢春慶」を出品し褒賞を受ける。
- 明治17年(1884)岡本町に「産栄社」の名称で漆器組合が創設される。
- 明治23年(1890)第3回内国勧業博覧会に河崎の岡村長四郎家や村田仙右衛門家などの漆器業者が出品。このころ、各地で開かれた博覧会等に数多くの伊勢春慶が出品され河崎も主要産地となっていた。
- 明治35年(1902)山田漆器同業者組合が結成され、需要増大によっておこった業者の乱立や粗製濫造を是正し、品質維持を目指した。漆器店ごとに、博覧会で受賞したことや製造法の上質さ等をアピールするようになる。店名等の印を捺したものが増えるのもこの時期か――。
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爛熟から衰退期(大正・昭和)
- 大正年間(1912〜26)に開かれた三重県物産品評会に山田漆器同業者組合として出品。この頃、神宮式年遷宮の古材を使用して漆器を製造する組織が作られるなど、製造業者の組織化が図られる。全国との取引が確認され「伊勢国産漆器」のブランドが定着し、生産量も拡大して最盛期を迎えたが、粗悪品も多く出回るようになる。
- 第二次世界大戦中(1939〜)、徴兵や配給制によって職人・材料共に不足し、主要生産地である岡本町や宮後などが空襲を受け、生産は休止状態となった。
- 終戦後、復興が図られたが、中国との国交断絶による漆の不足等により難航する一方、昭和30年代頃から登場したプラスティックなどの石油化学製品に押され、生産も止まり、人々の日常生活から伊勢春慶が消えていった。
再生へ――(平成)
- 平成6年(1994)伊勢市で開かれた「世界祝祭博覧会」に伊勢春慶が出品。
- 同6年 三重県の伝統工芸品に指定。
- 平成15年(2003)地元有志により伊勢河崎商人館で「里帰り伊勢春慶展」を開催。
- 同16年「伊勢春慶の会」が発足し、商品化を目指して生産を開始する。
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